この台詞は『敵は海賊・海賊版』でヨウメイ・シャローム・ツザッキィがシャルファフィンに向かっていうものなんですが、この台詞の何がポイントかというと、彼はシャルなんか信用していないのですが便宜上「信用して〜」と言ったつもりで、そう言いながら「本当に自分はシャルを信用していたんではないか」と動揺するんです。まさか彼女に恋しているのかとハッとして、それから逃れようと自暴自棄とも思える行動に出てしまうという場面で、ロマンス上の大転回点である訳です。
それをこっそり功刀さんの台詞に入れておいて誰が楽しいかというと*1、まあ、楽しいのはオレだけだな。
いや、昨晩功刀さんのモノローグ小説をかきあげたので、余韻で半日ぐらい功刀さんモードになっていたんですが。
まあ自分の書けるパターンって決まっているので*2、なに書いたって同じなんですけどね(笑)。
その半日の間、ぼんやり考え続けていたことがひとつ。
十代の頃書いた二次創作はほぼ残ってません。家の建て替えとか部屋の内装変更したりすると、自室にあるものをいじらなきゃいけないじゃないですか。他の人の目に触れる可能性もある訳で、そらいかん、と発掘されるたびに焼いてたからね。
しかし二十代半ばから書き始めたものに関してはまったく平気。「あっ、すみません」と思う時はあるにしろ*3、通常まったく恥ずかしいと思いません。隠す気がないのはそのせい。
で、それはなんでなんだろう、と考えるに。
「最初から見せること前提で書いてんだから、恥ずかしい訳ないだろ?」
つまり十代の頃の書き物って、端的に言えば「自分が使う」ために書いてる訳です。
そりゃー恥ずかしいさ。
うまいへたとかそういうレベルの問題とは関わりがありません。つまり完全に「myドリーム」、内向きの世界だから、人にみられたくないのです。
しかし二十代の書き物は、二次創作でない小説と同じく、それこそ他人に見せるために書いている。むしろ二次の方が、他人の目をハッキリ意識しているかもしれません。ターゲットが明確だしね。
だからイベントで本を買う時も、エロオンリーの本はまず素通りです。「使う」ために買うんじゃないから。よそさまのアイデアを見てみたいんです。で、そのひと固有の「萌え」に触発されるものを感じると固定客になる。
時代が変わって、男同士でも悲恋として描かなくてもいい世の中になったからさ。楽しい本がいっぱいあって、オレは嬉しい。他の人の作品を読んでいくことで、みなさん表現的にもどんどん洗練されていってる訳じゃないですか。それも嬉しい。自分の趣味をきちんと「表現」している女の子たちが大好きです。だって同人なんだから。「世間的にはこうだから」って予定調和することないんだから。そんなの息苦しいだけだもん。だから皆さんはどこも腐れてなどおらぬよ。むしろその流れが商業媒体にもっともっと反映されていくといいなと思ってますよ。割と本気でね。