世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

地元の私立図書館に、中川李枝子さんが講演にこられたので


いってきました。早めに予約しといてよかったです。満席でぎゅうぎゅう。
体調不良なので、途中でちょっとアレしたりしましたが。
あと、中川さんの背景についてはあまり詳しくないので、聞き間違い、事実誤認があったらすみません。


・もともと保母さんだったので、子ども相手が大変なのはしっていたけれども(特に小学生以上は)、60歳ではじめて、小学校三年生相手の子に対して、学校で講演した。子ども相手の場合、年齢をいうと、尊敬されることがわかったので、それから繰り返し使っている。


・お母さんが中勘助が好きで、その縁で中勘助文学館の館長さんと知り合い、そこからのご縁でこの私立図書館に来た。


富岡多恵子さんが「文芸時評」で紹介していた同人誌が面白そうだと食指を動かしていたら、石井桃子さんに「面白そうだから、あなた、やりなさいよ」と強くすすめられ、当時所属していた文芸協会の名簿をみて富岡さんに手紙を書いたことも(この石井発言は、私の考える石井桃子像に非常によく合致します)


・札幌の幼稚園時代はつまらなかった。ブルーグレイのスモックの制服(みんな同じ服を着ていたら、親がどうやって自分を見分けるのか、とショックをうけた)、外国人の園長を「お父さん」と呼べ、とか(ほんとうのお父さんがいるのに無理)。保育園には16年間勤めたけれど、やめた時は正直ほっとした。羽がはえたようだった。一番の楽しみは、キンダーブックがもらえること。詩、季節の歌、イソップ、生活指導……夢中になって読んだ。内田魯庵の息子・内田巌が苦労して書いた絵本が素晴らしかったこと、など。家では本がばらばらになると、母親が修繕して一冊にしてくれた。リベラルなのでいろいろ読ませてくれた。(←ここらへん、時系列がいりみだれているようです)


・父の転勤(中川さんのお父さんは学者で、給料より本、な人だったが、養蚕などを扱っていたらしく、その工場の関係で転勤があったらしい)で杉並区立の小学校へ。二年の頃、上野動物園で動物の殺処分などがはじまる。学校では雨が降ると体操ができないため(体育館や講堂がない)先生が本を読んでくれるのがなによりも楽しみ(ボランティアでなく、先生が読んでくれるのがよい。全員でそろって朝読書などでなく、一対一で本にむきあうのがよい)。みんなで本をもちよって貸し借りなども。しかし、大事にしていたアンデルセンは、敵国のものだととりあげられてしまった(デンマークと戦争してないよ!)。家に、金田鬼一の『グリム童話』があり、夢中で読んだ。「殺人者(ひとごろし)」「肉汁(そっぷ)」などの独特な字遣いとふりがな、話によって「おかあさん」「おっかあ」などと訳し分ける面白さなど。小学校三年生で、学童疎開がはじまる。集団疎開は修学旅行みたいで楽しそうだし、お別れ会などもやっていたが、自分は縁故疎開だったので、ひとりぼっちでつまらなかった。


・ただ、「わっち」「おめえ」の世界であった札幌は、教育的にはおおらかで、よく作文教室をやっていた。『綴方教室』なども読まれていた。新左翼運動も盛ん。でも、とても売れていた『まあちゃん』に印税が一銭も入らなかった話などもきいた。『花の別れ』『おゆき』なども面白かった。少女小説も読んだ。


・戦後、6・3・3制になり、福島第二中学校で戦後を迎える中川さん。福島での暮らしは、ウサギりんごひとつお弁当にいれていただけで話題になるような暮らし(田舎なのでリンゴはまるごともってきて皮のままかじる)でもあった。今回は体育館と講堂はあったが、そこをベニヤで仕切って教室にするありさま。ただ、校則も制服もないし先生もフリーダム。工作室の部屋をあてがわれたので、いつもグループワークのようだったし、机の上でおにごっこさえできた! GHQの命令で図書室をつくれというのがあったらしく、机の上に、一、二冊、本がおいてある部屋があった。無人スタンド状態。でもここでやっと本らしい本にめぐりあえた。岩波でケストナーなどが出始めていた。『クリスマス・キャロル』『宝島』など五冊。ちゃんとした本がいろいろでてきた。


・一番衝撃的だったのは、ここでまず最初に『二人のロッテ』を読んだこと。カルチャー・ショックだった。話が面白い、しかも大人の世界の話(離婚問題なんて子どもが首をつっこんじゃだめという時代に斬新だった)。大人が答えてくれないことを教えてくれて、ワクワクした。しかも最後はそれを解決してしまう。戦前と戦後の両極端な教育を受けたので、ちょっと自分は問題児だったかもしれない。


・家に漱石全集があって、それは読ませてもらえた。戦後、岩波少年文庫がでて、文庫なら買えたので、少しずつ揃えた。『小公女』なども読んだ。その頃はセーラに寄り添ってよんでいたが、今読むと「鼻っ柱の強い子だなあ、先生も意地悪したくなるだろう」と思う(笑)とか。みなしごの話も好きだった。『足ながおじさん』など。自分は親が揃っていたけれども、ジルーシャの暮らしが素敵に思えた。ベッドやおいしそうな食事などに憧れた。


・保母をめざしたのは、『ジェーン・アダムスの生涯』に感動したから。ノーベル平和賞をとったアダムスに憧れた。財産もある人格者、ああいう人を手伝いたいと思って福祉の勉強をした。成績がよくて美人でないとなれないと思っていたが、実習に行く。病気の子どもなどにも会う。みんな元気になって学校に行きたい子ばかり。本の楽しみを教えてあげたいと思う。二十歳で、「求む主任保母」の広告に応募、みどり保育園に入る。お母さんが、赤の他人にあずけているのだから、楽しませてあげなければと、お昼寝させて、身体を動かして、それから本を読んであげることをこころがける。『ちびくろさんぼ』などは、とてもウケた。


・なんでもヒントになる。和幸のディスプレイだって「きれい、あれは使える」と思う。キョロキョロする。人のうちの表札や看板も見る。光村図書の編集員をやっていて、教科書にのせるものを書いてくれといわれ、「くじらぐも」(1971)を書いた。400字づめで4枚の原稿だけれど、あれが一番大変だった。そのあと、「チックとタック」なども書いた。


・「ぐりとぐら」のヒントは、フランスの絵本。きょうだいでフランス語の先生に習っていて(妹の百合子さんはフランス語が得意になって上智大学に)、そこの家の絵本に、白い猫と黒い猫の話があった。オートバイでアウトドアキャンプに行く猫の話。女の子はおひめさまの話でうっとりしてくれるが、男の子のハートをキャッチする話は少ないので、頼んでこの絵本を借りて、紙芝居にしてみた。この猫はネズミが嫌いで、キャンプにねずみがでてくると、こわがって木の上で夜を過ごしてしまう。その時のネズミのはやし言葉が、「グリットグラット……」というんだけれども、ここが子どもに大ウケでいつも大合唱になった。そんなわけで、「ぐりとぐら」ができました。


と、こんな感じでした(ひどいメモだなー)


実際に子どもの反応をみて書いてきた人だから、やっぱり言葉に説得力があります。
トータル的に楽しませる姿勢って大事だよなあ。



拍手ありがとうございました!