世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

とりあえず中井英夫展レポでも。


池袋3丁目にある光文社ビル。
その一階に、ミステリー文学資料館があります。
以前、このビルの地下にある会議室で行われた某講義に参加したことがありまして、場所は承知していました。池袋から歩くと遠い、ということも。初めて行く方は、最寄り駅(有楽町線「要町」)からがよろしいです。
300円の入館料を支払うと、特別展でない時も、光文社所蔵の貴重な資料を読むことができます。日・祝・月がお休みなので、それだけ気をつければ……。


中井英夫展は、資料室の一角を、パネルでしきって行われていました。
入り口には、渡辺啓助氏が作成した流薔園の看板が吊され(裏に啓助氏のサインがあります)、出版された中井英夫の単行本、生原稿、手紙類、写真、インタビュー映像、家族の記録、虚無への供物の構想メモ、身辺小物、雑誌記事、関連記事などが展示されています(会期中、記念日、および、ほぼ一ヶ月おきに展示の一部が入れ替えられていたそうなので、すべてを見たかったら何回か通うべきであった模様ですが)。


単行本は特別な装丁版(武満徹)などもあり、通常版はひとつひとつが大変懐かしかったです。
手紙類は横溝正史からの礼状などがあったり(住所見えちゃってましたよ! 当時成城に住んでたのねん。「鬼火」の原画よりも「検閲されてない本を提供してくれたのが誰だかわからなくて、中井さんだって名乗ってくれたらよかったのに、御礼をいいそびれてしまって申し訳ない」と何度もしきりに謝ってる手紙の内容の方が面白かった。その頃の中井は編集者として名が知られていた)、『虚無への供物』の出版パーティの参加不参加通知なども飾られていて、その作家さんらしさが出ていて面白かったです。
久しぶりに薔薇十字社版の『アンドロギュノスの裔』なども見られたりして、「あれっ、こんな装丁だったっけ(大学の図書館と、ものすごく大昔に地元の古本屋で見たきりで、完全に記憶の彼方だった)」などと思ったり。


ちょうど、会場に本多正一さんがいらしていて、時々インタビュー映像のリモコンを動かして音声を流していたり、展示品について解説されたりしていました。
入れ替え展示の目玉である、中井英夫が酔っ払ってサインペンで描いた亜愛一郎の似顔絵がありました。単行本の表紙絵に触発されて描いたものだそうです。酔いが醒めて、翌朝見なおしたら我に返り、泡坂妻夫に送るのをやめてしまったものだそうです(ださなかった添え状つき)。
そこそこうまいと思いましたが、本多さんは「俺は絵描きになるつもりだったんだ、と本人はいってましたが、これはねえ?」と苦笑交じりに説明されてました(笑)。
一発描きとしたら、けっこううまいと思いますよ。


田端探訪記の雑誌記事、田端文士村として記念碑のひとつも建てるべきだという主張や、自分は田端の脳病院へ、患者のうめき声をきくために通う中学生だった、というくだりなどは、いかにも中井らしいな、と思いました。
が、その記事の中で、ひとつだけわからないところがありました。文豪が出入りした店の女主人が中井に語ったエピソードのところです。


「隣の八百屋が二階を建て増ししたら、案の定、主人が早死にした、という。この時代はそういう禁忌がまだ生きていた」


建て増しで急死????


何に対してのタブー????


年寄りなら知っているかと思って、母にきいてみましたが「建て増しして死ぬなんてタブー、きいたことがない」とのこと。
私が生まれた家も、病気の祖母のために、家の西側に日当たりのよい二階を建て増しをした家でしたから、建て増しで死ぬんだったら祖父が早死にしていたはずですが……一階を店にして二階に住むなんて、よくある話ですよね?



とにかく、今回の展示に関しては、本多さんが本当に尽力されたことが伝わってきました。
中井英夫の最期を看取っただけでも尊敬されるべきだと思っていますが、今後も西荻などで展示を予定されているそうなので、機会があったら、また見にいきたいと思います。


28日までなので、土曜日までに休める日がある方、興味があるけど今までいきそびれていたけど、という方には、オススメしておきます。こじんまりとして、見るのに1時間もかからないかと思いますが、中井の祖先自慢なども読めて面白いですよ。


お土産として、小樽文学館で行われた中井英夫展のパンフレットや、缶バッチなども売ってます。


http://www.mys-bun.or.jp/news/index.html#20150129news