世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

平日のお昼なのに、お客さん、三分の一ぐらい入ってましたね


映画版「屍者の帝国」上映、長くて10月30日ぐらいまでみたいです。
上映館リストはこちら。
http://www.toho.co.jp/theater/ve/i_eoc/



予告編はこちら。ちょっと、ネタバレありますね。


もう、感想書いてる方、たくさんいらっしゃると思いますし、案の定、パンフレットが売り切れで買えなかったので(あの、表紙のフライデーだけで買う価値あると思う)、あんまり具体的に内容が書けないんですけれども、もう上映が終わってしまったところもあるわけで、ネタバレしてもいいよね?


まあ、予告編をみれば、内容、わかりますが。


監督の意図は明らかに「ワトスン×フライデー」(生前は「フライデー×ワトソン」かもしれないけど)であって、つまり、円城塔×伊藤計劃です。原作ファンは「あれ?」なところも、幾つかあると思いますが、むしろ作品成立の過程を重視し、思いきってキャラクターの相関関係を大幅に変更、映画としての筋を通したために、成功している、といえるでしょう!
フライデーを演じた村瀬歩が、試写会を観に行って「泣いた」といってましたが、キャラクターに感情移入できれば、後半、涙腺がゆるむ映画だと思います。


やあ。


観られてよかった。


あ、拍手ありがとうございました!


ネタバレは「続きを読む」からどうぞ。




ゾンビ物のお約束として、死者はよみがえらない、結局は滅びる、というのがあると思うんです。
原作の結末はそれを一応免れて(?)はいますが、やっぱり「ええっ、それでいいの?」だし。


ところが。


映画では、死んだフライデーが少しずつ、魂を取り戻していくんですよ。
瞳に光が戻ってくる。
ワトスンに「魂が戻った」という意思表示をするようになる。
魂を取り戻すことは、ワトスンの望みであるとであると同時に、研究半ばで病没したフライデー本人の望みでもあったわけです。
実はマッド・サイエンティストは、ワトスンでなくフライデーの方だったのです。


そりゃ、ワトスンに「ありがとう」っていうよね。


私が原作に対して感じた違和感のもっとも大きなところは、なぜ、フライデーが記録を残す相手が、ロビンソン・クルーソーでなく、ワトスンなのか、ということだったのですが、映画版ではフライデーの意志(遺志)が明快なので、それがまったく気にならなかった。
最終的に二人は、袂を分かつ(っていうのかなアレ)ことには、なりますし。


劇中人物の口からハッキリ、というか、再三、ワトスンとフライデーは恋人認定されちゃってますが、まあ、されてなくとも、フライデーの全裸場面で、まあ、二人は単なる友達じゃなくて、デキちゃってたんだな、ということはわかります。あの時代のイギリスじゃ、それ、犯罪だからなー。禁断だ。大変だ。
お互いの身体を知り尽くしてるなら、マッド・サイエンティスト云々以前に、あの場面もあの場面も、お互い、ためらいも抵抗もないわな、と思えますね。ええ。


ワトスンがハダリーに浮気しかける的な場面もあるわけですが、阻止されますし(笑)。
だいたい、アイリーン・アドラーに転生するなら、相手はワトスンじゃないじゃん(笑)。


しかし、フライデー演じる、村瀬歩の女子力が高すぎて、回想シーンでしゃべると、非常に(たとえば、ぱくろみより)女らしく、じゃっかん戸惑います。女性声優さんっていわれたら信じるわ。完全にヒロインです。ありがとうございました!