世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

ドリトル先生を、井伏鱒二に訳させたのは


石井桃子である、という話をふと思い出し。
勝手な妄想がふくらむわけです。
「あなた、他人の日記なんてひきうつしているヒマがあったら、これの完訳をおやんなさい。私が下準備しましたし、稿料もきちんと出します」
ぐらいのこと、いいはなったんじゃないかと。
だってあなた、石井桃子って、世界に通用するバリバリのキャリアウーマンですもの。
児童文学作家・翻訳家っていう肩書きから、いかにもおっとりしたキャラクターを思い浮かべたら、たぶん間違いだ。
二人のキャラクターから考えて、けっこう見物な対決があったに違いない的な(「太宰さん」に限らずね)ことを考えてしまいました。


最初に書きましたが、妄想なので、何かの資料にしないでね↑


私が英米児童文学をそれなりに読むようになったのは大学生になって授業でやってからなので、子どもの頃は、石井桃子作品は『ノンちゃん雲に乗る』と、ピーター・ラビットの訳を少しぐらいしか読んでなかった(『ノンちゃん〜』は母が読んでいて貸してくれて、「級長っていうのは、今はいわないね、学級委員のことよ」という説明を受けた記憶があるので、たぶん小学校低学年で読んでいるはず)。
ご本人の申告どおり、石井桃子のちょっと硬質な文体は、ファージョンの訳でいちばん生きる気がします。ツルリとした英語で、すこし寂しい感じの話を書くファージョンと、よくマッチしている(私は「ねんねこは踊る」みたいな、ひねりのきいた人情話とか、「十円ぶん」「天国をでてゆく」みたいな、さりげない小話が好きだったりしますが)。
でもまあなんといっても、ミルンの『クマのプーさん』の訳が一番有名なわけで、他の人が訳したらあの味にならないでしょう。ミルンが自分の子どものために書いた童話を、お世話になった家の子どもたちや、愛する人にきかせるためにコツコツ訳したわけですから、それはまあ優れたものになるにきまっているよ。


ということを、ディズニーランドのおみやげを食べた瞬間に考えました。
プーくまの人形焼きみたいなお菓子が、「ハチミチ」の味だったからです。