世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

「本物」のクリエーターなら、無視される方が辛いのです。


昨日の日記に書いたことで、“ネット上での噂をもっともらしく広めることはないであろう”的なご指摘をいただきましたので、それもそうかな、と一文削除してみたのですが。
一日中、悲しくてたまりませんでした。
というか、一人でいると本当に泣いてしまいそうです。心の中ではずっと泣いていました。


Nariharaの小説は読んでやるけれども、おまえの極北の立ち位置についての説明など読みたくないよ、という方は、続きは無視して下さい。心が乱れているので、たぶんとりとめがなくなります。
なんらかの宣言をプロフィールのページにでもくっつけておけばいいのでしょうが、私は政治的なことが苦手でうまく書けない上、がんばって書いてみたところでほとんど理解されないことを何度も経験してきているので、半ばあきらめているというのが本当です。それでもなぜ今日書くかといえば、やはり悲しいので「指をさされることより、完全に無視されること、なかったことにされることの方が辛いのだ」ということについて、一言呟いておこうと思ったからです。




だいぶ前の話ですが、web上で「Narihara」をキーワードに検索をかけてみた時、某巨大掲示板のアドレスがひっかかりました。「わー、どうしようー、痛いサイト管理人としてさらされてるのかなー」(自分が何を書き散らしているか自覚が全くない訳でもないので)とおそるおそる覗いてみた訳なんですが、そこには私のデビュー雑誌と書き物と性別とペンネームの由来について、正しい情報と正しい推測が書かれているだけでした。安心し、そして嬉しかったりもしたのです。私の作品を見てくれている人がいて、なおかつ正確に読んでもらえている証拠だと思えたからです。
yahooにサイトが登録された時、紹介文を「女性同士の恋愛小説等」としてもらえたのも嬉しかったなあ(私が書いた訳じゃありません。サイトの比率は二次創作が一番多いので、そんなこと堂々とかけませんから。しかも私は死ぬまでに創元推理から本が一冊出たら、それで思い残すことはないと思っている小説書きですから←嘘っぽいですが本当に憧れているのです)。


なんで嬉しいかといえば、♀♀小説を書き出した頃、「おまえは違うんじゃないか」とさんざっぱら言われてきたからです。「違う」はそれまで別ジャンルでも言われてきたことでしたが、やはりこたえることでした。「おまえの恋愛観は間違っている」に等しいからです。私のような朴念仁でも、自分の限界ギリギリの経験があり、それを「恋愛でない」と片づけられてしまうことは、自分の歴史をほぼ否定されることに等しかった。だから、「それもありだね」と言われるようにならないといけないと必死になった。自分の伝えたいものが伝わらないのは、創作者として致命的なことですから。
♂♂二次創作を書いて人に見せ始めたのも、だいたい同じ頃でした。「やおいはゲイ差別である」という人に対して「そりゃ違うよ」ということを言いたかった。あまりに一方的な非難で許せなかった。現実とファンタジーは乖離していると主張している人にも、異議を申し立てたかった。もちろんファンタジーはファンタジーとして楽しめばいいので間違ってはいませんが、実際に♂♂な人にしろ♀♀な人にしろ、自由な表現のひとつとして、やおい(もしくはBL)を読んだり創作したりしているのを、その人たちは知っているのでしょうか(それで私は、二次創作の注意書きに「同性愛表現を好まない人は帰ってくれ」という文章を、どうしてもつけられないのです。確実に存在する読者層、これからもサイトに来てほしい読者に、鉛をのんだような気持ちになってほしくない)。実際、私がのびのびと呼吸できるのは、自分の感情や嗜好について熱く語る、若い女性達の中にいる時です。彼女たちが自分を貶めるようなことを言うのは、ばかばかしいことだとさえ思っています。


私の立ち位置は特殊なものかもしれません。
ですが、人は、指をさされるのが嫌なら、指をさされないようにします。
隠せるものは隠します。表現しようともしません。
反対に人は、見たくないものは見ません。
例えば、トーベ・ヤンソンが生涯添い遂げた恋人は、多くの人の目に見えません。
表現者は一つの覚悟をもって創作を発表しますが、それにも関わらずその訴えるものが「おまえは本物ではない」「おまえは存在しない」となかったことにされる。その無念のうちに倒れていったのは、決して一人だけではありません。


そういう苦しみが存在しているということも、知っておいていただけると嬉しいです。