世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

Fは打たれ弱い


先週の金曜、うまく時間があって、新しいドラえもんを見たのですが。
新しい声優さんたち、頑張ってるじゃないですか。
関智一肝付兼太の声を出せるとは、いったい誰が予想したでしょう(カヴァルカンティを見た人たち?)
一番違和感があるのは、ドラえもん本人ですね……大山さんの声だと、なんで近所の奥さんたちに絶大な信頼を寄せられているのかよく分かる感じでしたが、新ドラえもん、軽いんだ。悪戯っ子のようです。でも考えてみれば、タイムパラドックスいくら引き起こそうと歴史変えようと平気のへいざなのがドラえもんなのであり、むしろ信頼されちゃいけないのだよな、ということに気づいたり。


米沢さんが某書籍で、ドラえもんの頃のFは「すでに終わった漫画家」*1とコメントしていました。
Fの漫画は閉じている、というのです。
確かに、のび太は困ったことがあると、すぐドラえもんの道具に頼る訳で、それでひどい目にあって懲りるかというと、懲りない。何の成長もみせない。むしろのび太をどんどん駄目にしていっているのは、未来から彼を助けにやってきたドラえもん本人では、といわれても仕方がないですよね?


まんが道』に出てくるFは、正義感の強い、頼もしい青年です。Aは、Fが大好きで信頼しています。
まんが道の作者はAなので、自伝漫画とはいえ、私たちがみせられているのは、Aの目で美化されたFです。なので気づきにくいのですが、Fってもともと「開いてない」人なのでは、と思ったりするのです。
一番そう思ったのは、就職した時のエピソード。
Fは会社にいって、たった一日で辞めてきてしまいます。理由の説明はなしです。
あのFが辞めたんだから、よっぽどのことがあったに違いない、とAはあえてその訳はききません。
Aはしばらく会社づとめと漫画を両立しますが、Fは一人、こもって漫画を描き続けます。
戦争直後の、誰もが苦しい時代です。そしてFもAも母子家庭です、生活が厳しくなかった訳がありません。今だって、息子が一日で会社をやめてきて「やっぱり漫画描く」と言われたら、お母さんなんか言うだろ。一番親しい友達も、「どうしたんだ」ぐらいは訊くだろ。


訊かないのはたぶん、訊いても無駄だと知っているから。


私はそう思ったのでした。
Fは、正義感は強いかもしれないが、つまりは頑固で、そして打たれ弱いので、内面をさらけ出すことは決してない。身内であっても、Fの顔をみてなんとなく察するしかない。親しくつきあうには、ちと厄介な人なんだろうな、と。


それを越える魅力があったから今でも支持されてるんだろうけどね。
たとえば「のび太と鉄人兵団」は手に汗握る素晴らしいSF映画だと思ってます。
でも、AあってこそのFというのもあったろうな、と思ったりするんですね。

*1:藤子不二雄論―FとAの方程式』米沢 嘉博/河出書房新社