世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

ちゃんとした「3.11」映画でした。


結局はハリウッド映画なんだから、あまり期待して見てはいけないのでは、と思いつつも、地元での上映が今週でおしまいだというので、ついに映画館に行ってきました。


GODZILLA



トレーラーや内容紹介をみる限りでは、原点のゴジラをリスペクトして、核の脅威について描いているのだろうなー、と予想していたわけですが、そのとおり、「3.11」映画でした。
最初の「ゴジラ」映画というよりちょっと怪獣大戦争的な要素が強いですが。
字幕で見てよかったと思います。吹き替えで見ると意味が半減するかも。
日本語の台詞は、海外では英語の字幕がつくんでしょうし。


以下、最後までざっくりストーリーをアレするので、ネタバレがOKの方は「続きを読む」からどうぞ。




最初に、1950年代の、有名な「クロスロード作戦」とおぼしき、水爆実験を近くで見学する兵士達の映像が流されます。当然ですが、見ていたアメリカ人兵士も被爆したとされる、一連の実験です。
ただし、そこには「怪獣禁止」的なイラストが描かれている爆弾の映像が挿入されています。そして、標的は老朽化した軍艦でなく、怪獣の背びれらしい、シルエット。


1999年のフィリピン炭鉱で、大きな怪獣の化石と、それとは別に卵や繭のようなものを発見する芹沢博士(渡辺謙)。そして、どうやら何かが生まれてしまったことに気づきます。


同じ頃、場面は変わって、日本にある架空の街・ジャンジラへ。外国人も多いですが、沖縄ではなさそうで、地図的にみて、神戸あたりのイメージでしょうか?
その海辺の街に、1970年代に大事故を起こした、スリーマイル原子力発電所を彷彿とさせる、アメリカ式の原子炉が建てられています。そこに勤めている人間は、なぜかおそらくアメリカ人が大半で、日本人の技術者もいるという案配(日本の原発なのに?)。
最近、不自然な地震が続いており、ただの地震でないと感じていた技術者ジョーは、誕生日の日、妻と原子力発電所へ向かいます。ジョーの息子・フォードはインターナショナルスクールのバスにのって、幼稚園(?)へ。
ジョーの予感は的中します。
地震でない異常な揺れと電磁波のせいで、原子炉停止が間に合わず、爆発。
放射能を市内にまき散らすわけにはいかず、逃げ切れなかった妻や同僚の目の前で防護壁を降ろさざるを得ず、苦しみに泣き出すジョー。
原発はすべて崩壊。それを窓からじっと見つめる息子のフォード。急いで避難する子ども達。


さらに時間はとんで、2014年のサンフランシスコ。
息子のフォードは軍人になり、爆発物解体のスペシャリストに。早くに結婚して看護師の妻と可愛い息子に恵まれています。
休暇でサンフランシスコへ帰ってきた彼の元に、領事館から「おまえの父さんがジャンジラの退避区域に侵入して捕まった、ひきとりに来い」という連絡が。しかたなく日本へ向かうフォード。
迎えに行くと、父のジョーは、未だに異常な揺れと音響学について研究しており、退避区域の近くを通る船にソナーを乗せてもらい、15年前と同じ兆候が出ていることをつきとめていました。
「家に戻って、当時のデータをとってきたい、いきなり避難させられたので妻の写真一枚も持ち出せなかった」と主張するジョー。「あれは地震でもメルトダウンでもない、何かの呼び声だ。私を変人だと思うかもしれないが、あそこには事故でない何かが隠蔽されているんだ」 息子のフォードは同意しかねますが、ツテを頼って再突入する父をほうっておけず、防護服を着て、共に退避区域に入ります。
ジョーはガイガーカウンターを作動させますが、なぜか退避区域にはまったく放射能が残っておらず、野良犬が普通に走り回っている状態。家に戻り、データと写真を回収するジョー。フォードが15年前につくった「ハッピーバースデー・ダディ」の垂れ幕まで、そのまま残っています。
しかし、警戒中のパトロール警官(?)に発見され、二人とも謎の研究所へ連行されてしまいます。


そこでは芹沢博士が所属する、研究機関・モナーク(「一人で支配する者」の意味)が、繭のようなものを監視しています。謎の振動が危険域に達したと判断した博士は、繭を始末しようとしますが、時すでに遅し、ついにそこから翼のある怪獣が孵化(コードネーム?で以降、「ムートー」と呼ばれます)、研究所を壊して飛び立ちます。ジョーはこの時に大けがを負って死亡。残されたフォードは、何か父親から話をきいていないかといわれ「あれは何かの呼び声だと」の台詞を思い出します。


芹沢博士らの説明によれば、どうやら古代、放射能が今よりずっと強かった頃、それをエネルギー源にしている生き物がいた。彼らは地表の放射能が弱まると、地球の内部へ降りていって、地核で放射能を摂取して生き延びていたらしい。(パンフレットのあらすじによれば、戦争において核兵器が多数使用され核実験が続いたため、彼らは放射能を摂取するために地表へでてきた)。ロシアは怪獣でなく、アメリカが何かやっていると思っていたし、アメリカもロシアがなにかやっていると思っていた。怪獣の登場を目の当たりにしたアメリカ軍は、クロスロード作戦他、怪獣を攻撃するために核兵器を使ったが、倒すことはできず、彼らは再び姿を消してしまいました。なにしろ放射能を食べて、それを無効化する生き物なので……そのせいで退避区域の放射能も消えていたわけです。フィリピンから日本にやってきたのは、どうやらジャンジラ原発から放射能を摂取するためだったのです。
「なんでもっと早く殺しておかなかったんです」と抗議するフォードに、芹沢博士の助手ヴィヴィアンが「むやみに攻撃すると放射能をまき散らすかもしれなかったから」と説明。もう一つ、冬眠状態にあると思われていた繭の方は、放射能汚染レベルが高すぎて研究が続けられず、ネバダ州にある放射性廃棄物処理場に捨てられて放置されていました(無責任!)。
そこからも新たな怪獣が生まれましたが、こちらはなぜか翼がない。どうやらオスメスで体型がちがうようで、呼び合っているのは交尾のためであることが予想されます。彼らのランデブー予想地域は、フォードの妻と息子が待つ、サンフランシスコ。
ハワイで原子力潜水艦を襲い、力をつけるオスのムートー。
どうやって彼らの繁殖を食い止めるか。
そこへ現れる、ムートーの天敵と思われる、ゴジラ
アメリカ軍は核弾頭による攻撃でムートーを倒そうとしますが、芹沢博士はもう一体現れた怪獣「ゴジラ」が、自然の摂理にしたがってムートーを倒してくれるはずだと唱えます。が、「市民の安全が大事です」と無視されます。
妻のところへ戻るため、ホノルルからゴジラを追いかけるようにして、核弾頭攻撃に参加するフォード。ムートーが電磁波で電気機器をショートさせるため、手動+時限式で爆発させる核弾頭をエサにしつつ、なるべく被害の少なそうな場所へ、米軍はムートーを誘導しようとします。
しかし、核弾頭はムートーに奪われてしまいます。二匹はサンフランシスコに巣を作って産卵。決死のスカイダイビングで核弾頭を取り返してとめようとするフォードと仲間部隊。しかし核弾頭の手動の爆破装置は蓋が開かず、解除が不可能。とりあえず沖合で爆発させようと、仲間達は核弾頭を手で運び出し、船に乗せます。フォードは機転をきかせて卵を焼き払い、命からがら逃げつつ、ゴジラがムートーと戦う場面を目撃します。二対一なのでゴジラは苦戦しますが、口から必殺技・放射能の炎?を吐いて応戦。ついにムートーを倒して、サンフランシスコの大地に倒れます。
核弾頭をのせた船を自動操縦に切り替え、力尽きて倒れるフォード。間一髪でその船から救助されて、逃げるヘリの背後で、爆発する船(あの程度の爆発で倒せる怪獣だったろうか?)。


壊滅的な打撃を受けたサンフランシスコですが、息子も妻も様々な危機をかいくぐりつつも無事で、再会することができます。
そして、死んだと思われていたゴジラは目を覚まし、芹沢博士や助手ヴィヴィアンの目の前で、海に静かに戻って行くのです……「人間は自然を支配していると思っている。しかし、本当はその逆なのです」と主張する、芹沢博士の言葉どおり。


えー。


なぜ、最初の「ゴジラ」じゃなくて、怪獣大戦争だと思ったのか、おわかりでしょうか。
つまり、ゴジラ自身が核の警告者じゃないんです。
良い(人間に都合のいい)怪獣なんです。
肉弾戦の時は、そんなに違和感を感じなかったんですが、ゴジラ放射能ビームで、ムートーに一撃をくらわせた時は、むしろ「えー、それやっちゃうの?」みたいな。「この映画だったら、それ、いらなくね?」みたいな。


米軍の一連の核実験を、怪獣退治の名目で正当化するのはどうかなー、とは思いました。ろくな説明も受けずに爆風にさらされた人、いたんだから。同国人にまでひどいことしやがるな、アメリカさんよ、なんだから。
まあ、ゴジラ映画だからいいんですが。
あと、放射能を完全無効化するって便利な生き物だよね。コスモクリーナーだよ。欲しい人、結構いるでしょ、みたいな。
だいたい、日本に原発もちこんだの、アメリカ人だよね。
(それをほいほい受け入れた中曽根康弘が国策にしたから、福島も含めて54基もあるんですよね。ジャンジラ原発で働いているのがアメリカ人ばかりというのも、暗喩ですよね)


しかし、アメリカ人の撮った「3.11」映画だと思えば、充分に評価できます。
原子炉の崩壊の描写、繰り返される津波の描写、重苦しく降り続く雨の描写。
そして、研究対象だったはずなのに、もてあまして、捨てて、忘れさってしまった放射性廃棄物に、牙を剥かれる。
芹沢博士の父親は広島で被爆したという設定になっており、彼は原爆投下時間で止まっている時計を父の形見として肌身離さずもっている、それを米軍指揮官に見せる場面が挿入されており、多層的に核の脅威、自然の脅威について描いています。


この映画が改めて思い出させてくれるのは、「私たちは忘れてしまえる」ということだと思います。
何もかも飲み込んでいく、黒い津波の映像。
繰り返し流される、原子炉建屋の爆発と煙の映像。
生きた心地のしなかった毎日。
パニック状態になった知り合いとの絶縁。


三年半で、私はあの時の恐怖をどこかに置いてきてしまった。
いくらなんでも、早すぎだろう、と。


地震を知らない世代の子たちはあっという間に大きくなるわけですが、私たちは何を伝えたら良いのか?
ジャンジラが神戸あたりに設定されているのも、あきらかに過去の大地震の暗喩ですよね。
それ以前に、御嶽山噴火といい、地殻活動は相変わらず活発なわけで、さらなる地震が来た時、私たちは生き延びられるのか? 日本、滅びるよね?


それでも経済がまわらないから、原発再稼働するんですってよ……?
その地域に、活火山がいくつあると思ってるんですか?