世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

そういうの嫌いなのよ。


仲良しの二人がいて、片方の死によって盛り上がる式のドラマ・漫画が嫌いです。
簡単に言うと「それ、盛り上がるこっちゃねーだろ!」という。
「大事な人が死ぬかもしれない」と気づいた瞬間の、あの鉛を飲んだような気持ち、それを諦めとともにずっと引きずっていく時間は、ドラマ的な盛り上がりとは正反対のものです。
リアル闘病記だったら、むしろ「うんうん」とうなずいて読むんですが。


いや、なんで嫌いかというと、片方が死ぬ(もしくは両方死ぬ)パターンの形式は、二人の仲がある意味社会規範から外れている(例えば同性同士の恋愛)ので、「二人を引き裂く/罰する」ために殺すというパターンが異常なほど多いからでもあります。「世の中にはそういう人もいるけど、しょせんは滅びるものですよ」という非常にネガティブで差別的メッセージが発せられている。
なんだそりゃ、と思う訳ですよ。
差別された上に、なぜ、抹殺されねばならないのですか?


富樫が現在連載している某漫画、「どう終わるんだろうね?」という話を妹としていたんですが。
まああの人の漫画なので、「旅団を倒して終わる」「キメラアントを倒して終わる」はありえない。
富樫漫画が常に発しているメッセージは「勧善懲悪というのはうそっぱちである。いくら悪を倒したとしても、状況はなんら改善することがないのが普通である。真の解決(正義・平和でもいいかな)は、あらゆる者がその差を超えて、互いがつきあえる部分でのんびり共存共栄・ギブ&テイクすることにしかない」という、非常に健康的なものだからです(男性読者にとっては、一種の割り切れなさが残る『幽☆遊☆白書』より『レベルE』のような、誰でも描けそうなわかりやすいギャグ漫画の方がウケるみたいですが、その『レベルE』でさえこのメッセージを、最初から最後まで発していましたよ?)。
だから、「敵」として設定されていても、その背後にある事情が説明されている旅団やキメラアントを主人公が倒して「仕方ないけど、殺さなければならないので殺しました」とギブアップ発言をしたら、それはもう富樫漫画じゃないワケです(ギリギリ危険な時もあったけどね)。ファンは漫画家がそれをどう処理するか、主人公がどうクリアするかみんがために、とぎれがちの連載を今でもおっかけているのでしょ? 旅団と折り合うのは今まで色々あるから難しそうだけども、キメラアントの方は王が変わりつつあるらしいし、そんなに的外れな予想ではないと思いますよ。


望ましい終わり方の一例としては。


一人で会いにこい、と言われたのに、ゴンが再びキルアを連れて父に会いに行く。
「なんで連れてきた」と言われてゴンが「オレの大事な人だから会わせたかったんだ」という。
で、紹介された嫁がしおらしく挨拶するんだけど(母親にはすでに挨拶ずみなので実は慣れっこ・笑)、父親がいまいちキルアを気に入らない。
「なんだよ!」とゴンがキレて父親をぶっとばす。
「いいよ、二人でハンターとして一緒に生きて行くんだ」宣言をして二人が去る。
メデタシメデタシ。


ワハハ。
いや、そういう展開にはなりそうにありませんが、ありえる終わり方としてあげてみました。
二人のどちらも死なない、別れない(もしくは今別れてもいつか会えるだろう形をとる)じゃないとね。それは私の趣味というのでなくてね。


いや、先日富樫のファンサイトの方からリンクしていただいたので……たまにはそういう話題もいいかなと思って、今まで書いた文章と一部重複がありますが、ちょっと書いてみました。