世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

イギリス的な、あまりに、イギリス的な


原作の『思い出のマーニー』は、幼い頃に血縁と死に別れ、養い親の器の狭さもあって、精神的にやや現実と乖離した生活を送っていたイギリス人の孤独な少女・マリアンナが、田舎にいって、人の素朴さ、あたたかさ(や不愉快さ)に触れ、祖母のつらい記憶に触れ、年齢も様々な新たな友人と出会って、心を開いていく物語です。幽霊話ですし、人の死やエゴも描かれていて、明るい物語とはいえませんが、ひとつの成長を描いている、良書です。


ですから、それをそのままやればいいものを、日本を舞台にしたために、さまざまな矛盾や余計な要素が発生し、「なんだこれは?」になってしまっているのです。
あと、唐突な「ふとっちょブタ」のせいで、アンナがめちゃくちゃ悪い子になってしまっているのも、問題ですね。あそこでテレビ、消しちゃった人もいるみたいですよ(苦笑)


バーネットに『秘密の花園』という長編があります。
インドに赴任していたイギリス人夫妻の娘、メアリーは、インドの気候があわず、いつも具合が悪く不機嫌でした。両親が伝染病で亡くなり、メアリーはイギリスの親戚に預けられますが、冷たい風が吹くイギリスで、彼女は少しずつ元気を取り戻していきます。優しい使用人親子、病弱ないとことともに、秘密の花園を復活させていくことで、自分のみならず、大人達をも活気づけていく話です。


私はこれを、とてもイギリス的な小説だと思っています。
こういう論理の中で生きている、イギリス人の物語だと。


1)イギリス人たるもの、世界をまたにかけて、生きなければいけない。
2)けれど、やはりそれはつらい。
3)やっぱり、イングランドが一番。
4)寒くてまともに野菜もとれないような貧しい土地柄でも、これが自然というものだ。
5)わずかな自然の恵みを大切にし、質素に生きよう。
6)自分たちが手をかけて育てたもの(たとえば植物)を愛そう。


秘密の花園』も『思い出のマーニー』も、豊かな自然の中で元気になるのでなく、ほんとうにわずかなものだけをよすがに、息を吹き返します。
物も人も溢れていて、なおかつ自然も豊かな日本の田舎の話にしてしまったら、イギリス人のメンタリティを大前提にした話が、歪んでしまうのは当たり前なのです。


どうしても日本を舞台にしたいのなら、全員日本人にしてしまえばよろしい。
日本人の少女がお婆ちゃんの幽霊に会う話では、なぜいけなかったのでしょう?
現代日本の少女の物語なら、別の形の孤独を描けたのでは?


監督は、いったい、何がしたかったのでしょうか? 
この、マーニーで。
なんでこんなに、わかりにくい映画にしてしまったのでしょうか?


同じことは、映画『借りぐらしのアリエッティ』にもいえるのでしょう。


アリエッティの原作にあたる、ノートンの『床下の小人たち(ボロワーズ)』も、この、いかにもイギリス人らしい前提に基づいたファンタジーです。
「盗むのは恥ずかしいことだ。自然にあるもの(人間がつくったもの含む)から、必要なだけ借りて、それでなんとかやりくりするのが、ボロワーズの誇りだ」という、アリエッティのお父さんの台詞は、まさしくイギリス紳士であり、その引っ越しについていって、神経をすり減らし、けんめいにやりくりしつつもヒステリーをおこすお母さんは、夫の赴任地でストレスに心身をボロボロにしていく典型的なイギリス人淑女です。
つまり、ボロワーズは、過酷な自然とたたかうイギリス人そのもので(彼らは、妖精は自分たちとはまた違う生き物と定義しています)、大きな人間たちは、それに降りかかる災厄の比喩です。
ですから、この理屈だけを、日本にもってきても、「所詮、ただの泥棒こびとじゃん」にしかなりえません。
だいたい、なんでイギリスの小人が、日本に来ちゃうんだよ。
日本には、コロボックルが住んでるのにさあ。


と思うので、私は、アリエッティは、最初からみていません……不愉快になること、間違いなしだからです。


小説の映像化では、すべての要素を投げ込むことができないのは仕方がありません。キャラクターの改変や細部の省略などは、仕方のないことでしょう。


しかし、その国ならでは成立している部分の多いファンタジーを、なぜ、わざわざ日本に引っ越しさせてくるのか?


私には、よく、理解できません……。


はっ、拍手ありがとうございました!