世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

そこが一番理解不可能です。


映画「思い出のマーニー」に対する昨日の疑問は、舞台が原作通り、イギリスでないということに、ほぼ、端を発しています。


http://d.hatena.ne.jp/narihara/20151010#p2(疑問はこちら)


本日は、原作との比較で、私なりの回答を書きます。
多少、ネタバレになりますが、バレたからといって価値のさがる原作ではないので、そのまま書きます(あと、記憶で書いてるので微妙に違ってたらごめんなさい)。



1)原作では、主人公は、イギリス人の少女・アンナであり、喘息のため、空気のいい海辺の村に療養に行きます。
 空気が悪いところから、良いところに転地するのは、当たり前です。
 日本が舞台であるなら、東京から北海道に行かせれば、まだ自然だったかもしれませんよね。
 原作通り、屋敷の近くにはサイロがあるわけですが、長野よりも北海道(イギリスと緯度がほぼ同じですね)でみかけるのが、自然です。


2)養い親の親戚である夫婦は、親切で良い人達です。ポストや郵便局が遠いのを心配してくれますし、アンナの帰りが遅ければ心配します。行ってはいけない場所についても、近所とのつきあい方についても教えてくれます。だからこそ、アンナは、神経質な養い親といるよりも、すこし心が落ち着いてきて、新しい何かを受け入れる素地ができるわけです。
 喘息の子を預かっているのに放置しっぱなし、びしょ濡れになってもまともな手当てもしないような、冷淡・冷酷な夫妻に預けられたら、もっとグレませんか?


3)原作のしめっち屋敷は、海辺の村にあるので、目の前の入り江には潮の満ち引きがあります。それを見計らっていかないといけない、という制限がかかります。
 それを、長野の川縁にするから、山奥の川にたいして「満潮」という単語が不自然になります。


4)原作にはもちろん、七夕なんて、ありません。物語のテーマ的にはお盆にした方がまだマシだったんじゃないでしょうか。


5)原作の舞台は、さびしい田舎町ですから、近所には子どもがたくさんいません。必然的に、近所に同世代の子がいれば、おつきあいが強制されがちです。原作のスタッブズさんは、一応、夫妻の知人で「お世話になっている」わけですが、喜んでつきあっているわけではありません。娘のサンドラ(映画の「ふとっちょブタ」さん)は、ズルをしたり見栄っ張りだったりで、あまり感じのよくない子です。預かってくれている夫妻からも、仲良くするようにいわれていたので、しばらく我慢していたアンナですが、外でゆえのない悪口をいわれたために、思わず切れて「ふとっちょブタ」といってしまうわけです。
ものすごい意地悪をされたわけでもないのに、なんらかの反論より前に、相手の容姿をいきなり攻撃するのは、異常です。あの場面の意味が、まったくわかりません。


6)マーニーもアンナもイギリス人なので、当然英語で話しています。アンナの祖父はマーニーの親戚で、交流は多くなかったものの、唯一彼女をかばってくれた少年として登場します。異国の少年である意味はありません。


7)イギリスやアメリカの人にとって、社交パーティはつきあいの基本です。でたくなくても、出なければならないものです。庶民の格好をしているアンナを、「花売り娘」として登場させパーティにひきこむアイデアは、原作でもじゃっかん浮いている感じがする箇所ですが、現代の日本で花売り娘とは、いったい何を象徴しているのか、さっぱりわかりません。


8)原作では、学者一家が、しめっち屋敷に引っ越してきます。学者夫妻には子どもがたくさんいます。彼らとアンナの交流が深まると、マーニーの幻は少しずつ淡くなっていきます。マーニーが遺した日記を発見した子が、「あなたの名前、知ってるわ」とアンナにいうのは、時代的な錯誤はともかく、異国人ではないので、祖母と孫の印象が多少重なったとしても、そこまで不自然ではありません。 


9)アンナもマーニーが現実でないことを、自覚せざるをえなくなってきます。過去の記憶の中で、サイロでの冒険はひどい結果に終わり、アンナはその後、マーニーと二度と会えなくなります。マーニーに、裏切ってしまったと思われているのではないか、と、アンナは気に病みます。寝込み、そして、現在の時間軸に戻ってきます。