世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

作者に喜ばれない系の感想な気がするけれども『顔たち、犬たち』を読みました

オカワダアキナさん『顔たち、犬たち』を読みおえた。

去年の11月に発行された本で、その時すぐに購入してはいたのだけれども、サンプルで読んだ二人称の書き出しがちょっと難しそうで、具合のいい時に読もうと思って積んでしまった。それで、二月に入ってある程度眠れるようになってから読み始めたが、少し読むととまってしまう。今回のメイン視点である優人さんが、既婚の金融関係のエリートで、私の生活からあまりにも乖離しているというのもあるかもしれないが、オカワダさんの場合、若い車夫の話だろうとグイグイ読ませて共感できるわけで、つまり作者自身が優人さんからちょっと距離を置かせようとしてるからだと思う。『リチとの遭遇』も限りになく一人称に近い三人称のために、じゃっかん距離感が生まれていて、オカワダさんの有無をいわせぬモノローグの力強さになれていると「なんかさっぱりしている」と思ったぐらいだ。

 

オカワダさんはこの話を「男性性の呪い」を書いたという。普通に書けばそれに一番とらわれているのは優人さんになるのか?と思うが、彼の目の前にうつるものはすべてさらさらと流れていくものだ。彼がふと迷うときは「大丈夫か・大丈夫でないか」と思う時だけで、大丈夫でなさそうでもそのままでいる。彼がどんなに世間的にまずいと思われることをしていても、それは彼の身を切ることではない。もし彼のしていることが露呈して仕事も沙都子もすべて失うことになったとしても、嘆くこともないのではないかとも思う。逃げ続けた父親のように、彼もすべてから逃げ続けているというのなら、彼も甘んじて滅びていくだろう。こう生きられるのは彼が男だからかもしれないが、呪いと感じてはいまい。

 

この作品に先行する『イサド住み』は、トランスジェンダーの今くんの視点から書かれていて、同じ関係を優人さん視点から書けばこういう風になるかもしれないという話だが、今作でも、今くんがしゃべり出すと物語の解像度が一気にあがって「うわっ」となる。ということは、男性性の呪いに一番とらわれているのは今くんなのかと思う。四六時中自分の身体に違和感を感じていて、男としてパスすることが生活で一番大事なことになっているのだから。そのためにつらい薬も服用せねばならず、仕事の選択肢も少なくなり、生活もしにくくなるし、男として通用するってそこまで大事なことなのか?と思ってしまうのだ。違和感はわかるけどデメリットしかなくないか、と。そういう問題でないことはわかっていても、だ。

 

『イサド住み』の感想でも書いたが、私はムムくんというキャラクターがあまり好きでない。一番良くないのは、気持ちを告白する場面で今くんを試すようなことをしたことで、男の優位性をチラつかせている匂いがした。私は、力関係で上のものが、下のものになんらか強要するというのが一番嫌いなので、たとえムムくんが無意識であったとしても、自分の方が今くんより下と思っていたとしても、ゆるされると思っているからあんなことを告白したのであり、やっぱりそこが気持ちが悪い。ということはもしかして、何も考えていないようで、一番男性性にとらわれているのはムムくんなのかもしれない。

 

ひるがえって私は女性としてパスしてるのか?と思うと、あんまりパスしていない。近所の人にまで長男だと思われている(何度でも言うがこの家に長男が存在したことは一度もない)。背は高いし声は低いし夫もいない。男になりたいと思ったことは一度もないのに。男でなければ手に入れられないものを欲しいと思わないからだ。
ある日職場で、割と親しい上司から「なりはらさんは結婚しないの」と問われ、「この人だったら一緒に暮らしたいと思う人がいたんですが、その人とお別れしたら、そういう気持ちがぜんぶなくなっちゃったんです」と答えた。「そうか、悪いこときいてごめんね。そっちの人かと思ってた」と謝られた。すまんがそれセクハラです。でもこう答えると「いい人紹介するよ」とか言われずにすむので楽なのだ。が、つまり私はシス女性としてのパスができていない。

 

倫理観の強い人にはあまり向いていない話かもしれない。
面白いけど、時々「うわっ」となるかと。
そして『イサド住み』とあわせて読むのをおすすめします。

 

オカワダさんは五月?までに新作を8本書く予定らしいので、コロナの後遺症もあるでしょうし、どうぞご無理なさらずと思うのですが、それにもたぶんなんらかのチャレンジがあると思われるので読者としては楽しみにしています。