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鳴原あきらの過去・現在・未来

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津原さんの掲示板にこんな記事が。

琉璃玉にまつわる誤解


投稿者:津原泰水 投稿日:2011年12月21日(水)05時08分34秒


 僕のあとがきの記し方がまずかったらしく、津原版『琉璃玉の耳輪』の尾崎率、津原率に関し、誤解なさっている読者評をよく見掛けます。尾崎版が入手しづらいし読みにくいため、致し方ないのですが。


 代表的な誤解は、文章に至るまで前半尾崎、後半津原、という解釈で、これは違います。まず文章は徹頭徹尾、めっちゃ津原です。尾崎さんは「あらすじ」しか書かれておりませんので。
 内容も、「一応、別物ではない」という程度。
 尾崎版に、公博の内面はほぼ描かれておらず、田邊刑事も阿呆な刑事として一度顔を出すのみ、掏摸の女との絡みもありません。名前さえ無いので僕が龍子と名付けました。八重子も「事故」のあと再登場しません。女中の町子もいません。明子→明夫は、たんなる「男装」です。唐草七郎もマッスル益荒男も登場しません。
 流行り歌、銀座の情景、浅草の映画館……といった、昭和初期を代表する風物を多数書き込みましたのも、僕です。尾崎さんには書き込む必要がなかったのです、当時の現実世界ですから。


 あとがきで、ことさら「後半は津原」と強調しましたのは、尾崎版には実質的に、結末、結論が存在しないからです。
 琉璃玉の耳輪をつけた三姉妹を集めたい人がいた、というのは分かるが、「一年後、どこそこに集めてくれ」と依頼した理由が書かれていない。故・二階堂奥歯さんと共に、最も頭を痛めたのがこの点です。僕が思い付いて電話で伝えたときの彼女の第一声は、「やったあ!」でした。
 そういえば尾崎翠フォーラムで、このほどの震災後でも同じように書いたか? と問い掛けてこられた方がおいででした。僕の答は「はい」。僕は科学の不可逆性を効率的に描きたかったのであって、理想のパラレルワールドを描こうとしたのではありません。「五色の舟」と同じ思想が『琉璃玉の耳輪』をも通底しています。


 いま一つの大きな誤解は、変態性慾の男・山崎の、長々とした幻想場面が、いかにも津原である、というもの。
 あそこは実は、100%、尾崎さんなのです。もちろん文章は僕です。いかにも津原節とお感じになる方もおいででしょう。それは致し方ない。
 ところが、あの冗長といえば冗長なシーケンスに、僕が新たに加えたモチーフはまったく無いのです。「あらすじ」であるにも拘わらず、きわめて執拗に記された場面でして、それを忠実に立体化したのみです。
 尾崎版どおり中盤だと読者をリストラしてしまいそうなので、終盤に移動させざるをえませんでした。


原作が、昭和初期の風俗(もしくは探偵)物にしては、津原さん、随分エッジを削ったなあ、と思って読んでいたのです。正直、1950年代より前のものというのは、もっとトンチキで、とんがってていいのですよ。
山崎さんの幻想場面は、あれはいかにも津原節で、誤解する読者がいても仕方がないと思います。あそこだけ他と、だいぶ違いますからね。




というか、まだ『11』が読みかけ、という不良読者がなにかいってもアレなんですが。