世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

書いた言葉はなおせるが、言った言葉はなおせない。


日記をつけるのが、ふっと怖くなる時があります。
トップページのカウンター、だいたい日に100近く回ってる訳です。日記だけ見ていらっしゃる方もいるかもしれません。とにかく誰かが必ず読んでくれているのは間違いない。
だのに自分でも「ぶっちゃけすぎ?」な日がある。


お世話になった先生に「書いた言葉はなおせますが、言った言葉はなおせません」といって、おもしろがられたことがあるのですが、それは私の実感です。人は失敗してもやりなおせるものだ、と思っていないと、やりきれないほどの実感です。
こういう日記のような文章も、「言った言葉」に含まれます。
本当は、修正できない。
文章そのものを後で差し替えることは可能ですが、その時に人に与えた印象を変えることは、不可能な訳です。
それを考えるとね。


他人のふりみて我がふりなおせ、ではないですが。
「まだあの人が友達としてそばにいたなら、この人がこんなに暴走する前にとめてくれてたろうにな、惜しいな」と思う時が時々あります。
忠告は、されているうちが花です。
それに対して謙虚である人は、多少暴走したところで問題は残らない。親切な人というのはいるもので、大事にいたる前に必ずとめてくれるでしょう。何度失敗しても、そのつど助けてもらえるでしょう。
反対に「オレ別に悪くないし?(言い訳エンドレス&上から物を言う)」な人の前からは、どんな親切な人でも去ります。そしてその人は、必ず酷い目にあいます。
幸いうちは、妹がモラル・ウォッチャーをつとめてくれているので、大暴走だけは防がれていると思うのですが。


そろそろ私も、年相応の落ち着きを身につけるべき時がきているのかもしれません。
と、いつも思ってはいるんですけどね……。