世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

「ほぼ日」で山田ズーニーさんが書いてますが。


ほぼ日刊イトイ新聞」で、小論文の書き方講座が週一で連載されています。今年11月の最後の週の書き出しは、こんなでした。


「やりたいことがみつからない」って、みんなよく言うけど、そう言うときの、その「やりたいこと」って、どういう次元なんだろう? ジャンル? 職業名? 会社?


福祉の仕事がしたい姪御さんの、大学進学用の自己推薦文を添削する話なんですが。
一見希望の職業とは関係ない仕事についたとしても、社会で何をしたいかが己の中で整理されていれば、それに何らかの形でずっと関わっていくことができるし、幸せではないかという主張で。
この姪御さんの場合は、自分の経験から「自宅での介護をするにはどうしたらいいか」ということをテーマに打ち出しました。だから、もし彼女がお年寄りを施設に縛りつける仕事を強いられるのなら、福祉系の職業につけたとしても幸せではないだろう、とズーニーさんは書く訳ですが。


そのとおりだ、と思ったのです。
目新しい主張ではないかもしれないけれども、その姪御さんが未来のヴィジョンを徐々に結んでいく過程は、素晴らしかった。
(のでよかったら原文で読んでね。私は紹介文があまり上手ではありません)
これはどんな年齢の人でも、己に問いかけていい事ではないでしょうか。


日々の仕事でちゃんと結果を出してるのに、自分に砂をかけてるお兄さん達がいます。そして、自分がやっても(努力しても)いないことに対して、「できない!」と呟いてる。当たり前じゃないか。しかもノウハウがないとか年齢が若すぎてというならともかく、全部もってんじゃん。大の大人がなにいってんですか、と思う訳です。「おいおい兄ちゃん、せめて犯罪にゃ走るなよ」と言いたくなる時もあります。なぜそんなことを心配するかといえば、自己評価の方向に問題があるからで、こういう人が自暴自棄になったら、とめるものがないので怖いんだ。


私は真面目な人が好きです。
学校や仕事以外の場所でもつい勉強や仕事の話をしちゃう人と、仕事の場で遊びの話ばっかりしてる人だったら、前者の方が絶対に好きです。そこまで何かに打ち込んでいる人の話は、すっかり理解しえないかもしれないけれど、面白いし、タメになります。自分の意見がないのに、しったかぶりしてチャラチャラしてる人とつきあうぐらいならね。
それは仕事に限った話でなく、人が「趣味」と呼ぶようなものにも当てはまると思っています。むろん、テキトーがいい人はテキトーにやっててもらってまったく構わない訳です。が、真剣にやっている人に近づいて、ひとことふたことでも会話した方が、楽しかったりするでしょう。


少なくとも腹はたたなくて、イイですよ?