世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

一歩進んで二歩さがる


前にも書きましたが、学生時代に読まされた初心者向けSFの中で、一番感銘を受けたのはクラークの『幼年期の終わり』でした。超能力をもつ新人類が台頭してきた時、旧人類達が「彼らの方が能力高いんだし、地球は連中にゆずろう」と譲っちゃう。これは普通の読み手にとっては「終末SF」、恐ろしいif物語らしいですが、あのさ、新人類をすべて抹殺して「これでよかったんだ」な展開の方が、流血の悲劇でよっぽど怖くないですか?
その方が一般的なストーリーなのかもしれないけれど、私は『幼年期の終わり』は美しいと思ったのです。


新しいもの、異質なものというのは、最初から世の中には受け入れられない。
特に閉鎖的な土地柄だったら、洋の東西をとわず、仲間外れにしたり文字通り抹殺したりする。
でも彼らも弾圧されることで「ナニをコノヤロー!」と頑張って、市民権を勝ち取ったりすることもある訳で。
歴史って、そういうことの繰り返しじゃないのか。


朝日新聞22日の上川あや*1の投稿、“差異を受け入れる社会はどんな人にも優しい社会”は、あまりに使い古されたコメントであって、ちょっと泣きたくなる訳です。「個人的なことこそ政治的なこと」というフレーズも、「もういいよ」といいたい時がある。
だけどそんなフレーズを呪文のように唱えていないといられない時があるんだよな、と。
世の中は変わってくれたんだ、と思っていると何歩も後退していて、思わぬところで足をすくわれてしまう時が。


「今ドキの若者にはついてけねー」ぐらいのこと、私だって言うんですけど、だから「オレは認めんよ」とは思わない(自分もある意味今ドキの若者だからな、というのはおいといても)。流行はすたれるものだし、子どもは幼ければ幼いほど、大人と社会をクッキリ反映するんだし。


と、とりとめのないことを、一日ずっと考えていました。

*1:世田谷区議員。この4月20日、ようやく戸籍上も女性に。http://ah-yeah.com/