世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

愛国心のありどころ。


某様、私の雑記をご覧になってらっしゃるようで……「なんだ、公道で堂々と人の悪口を!」とお怒りでなければ良いのですが(「主義」は「主義」と思っていますから、本人は悪口のつもりはないのですが)。
とにかく言いっぱなしでは失礼な気がしますので、ワタクシも自分の愛国心のありどころ等を語っておこうと思います。


私は国歌を歌います。歌が好きなので、お仕着せでも苦ではありません。誰も歌いたがらないダサい校歌だろうと、できるだけ覚えて歌う私です。歌に罪はないですし、隔てをおくことはしたくありません。
しかし、その歌を歌うことで目の前にいる人が怒り狂う、とわかっていたら、歌いませんが?


祝典や儀式の場で、子どもに歌を歌わせることは教育の一環で、そのこと自体に異議はありません。
しかし、特定の歌を歌っているかどうか、監視する人間をそれぞれの現場に派遣するのはやりすぎです。それこそ税金の無駄遣いです。それで教師が処分されるというのも理解できません。そして、それらの騒ぎを見る子ども達の中に、愛国心なるものが育つとは思えません。逆の効果は大いに期待できますが。「大人ってバカばっか!」という不信感と反発心をしっかり育むことでしょうから。
だいたい何故、親方日の丸(公立学校の教師は地方公務員です。いいかえれば彼らこそ「お国の手先」です)であるはずの教員が、あえて「歌わない」のか。その歴史や背景を考えてごらんになったことはありますでしょうか。
大人の仕事はまず儀式を監視することでないでしょう。そんなに学校を監視したいのなら、例えば不審な人間の侵入を許さないことで、様々な犯罪から子どもを守るのが先ではないでしょうか。


戦争で真っ先に犠牲になるのは女と子どもと相場が決まっています。敵国を蹂躙するには、その二つを犯すことが一番てっとりばやく、そして大きなダメージを与えられるからです。近代では他国の子どもをさらって、兵士として育てあげることまで行われています。いやはや徹底的ですね。
ゆえに本当に国を愛する人は、まず女子どもを保護するべきでありますが、真っ先に削られる予算が、女性が関わるものと福祉であるこの国において、国を愛しているのはさて一体誰なのでしょうか?


NGOで、海外の難民救助の仕事をしている友人がいます。
自分たちの「地雷教育(地雷がどこにあるか察知して踏まないようにする・地雷を見つけたら目印をつけて他の人にも知らせるetc.)」が実って、救われた人命があったことが嬉しかったと彼女は言います。
「日本よ、誰からも愛される国であれ」などとは私は思いませんが、例えば彼女の活動に感謝し、日本を愛してくれるようになった人もいるはずです。そういう意味ではつまらぬ監視に躍起になるお役人よりも、彼女の方がよほど愛国者ではないのでしょうか。


私はノンポリ(←今の若い人はこんな言葉知らないって知ってて使うんだよこの人)です。
私の意見は特にオリジナリティのあるものではありません。おそらく人から笑われるレベルのものです。右も左もよくわからないぐらいですから(どっちも好きではない)。
それどころかスポーツにもほとんど興味がありませんから、海外で活躍している日本選手の話などをきいても、きっと頑張っているんだろうなあ、偉いなあ、ぐらいしか思いません。そういう意味では、愛国心などほとんどないのかもしれません。


で、そんな私が何をいったい期待しているのかというと。
「私は日本を愛しています」と胸をはる人には、本当の意味で健やかで立派であって欲しい。
と、
そう思っているだけのことなのです。