世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

知らないものは美しいかもしれないという話。


先日のHYDE姫の迷MCには続きがあったそうで。

「じじいになったらひとつずつ思い出そうと思ってます」

とのたまったんだそうですね>情報提供ありがとうございます、Tさま。


そういえば彼、じいさんになったら音楽なんかやめてコーヒー店でものんびりやりたいとほざいておったような記憶が。
金子國義との交流といい、なんでそんなにじいさんにこだわりあんのかしら、と考えてみたのですが、そういえばこの人はリアルなじいさんを知らないで育った口だったような。
つまり、知らないものだからこそ、美しい夢が思い描けるというパターンであると思われ。


久生十蘭著作権管理人さんのブログや、江口某氏の本などを読んでいるうちに気づいたのですが、久生十蘭の小説に出てくる父親は、みな影が薄いのです。もちろんそれなりに出てきはするのですが、母親の存在感やリアルさにはとうていかなわない。 たとえば、彼が短編小説コンクール世界賞をとったのは「母子像」であり、父子像ではない訳です。また、彼の代表作である「湖畔」は、語り手が父であることを捨てる話です。それはやはり、父親不明という、本人の生い立ちを反映していると思うのが自然かと。


知らないものだから書けない、という久生のパターンは誰にでもすんなり了解してもらえるものかと思うのですが、知らないからこそ憧れる、というHYDEのパターンって、意外に了解されない思考のような気がしないでもなかったり。


猫を飼ったことのある人はやはり自然に、犬より猫が可愛いと思う訳ですよ。
でも、犬を飼ったことないから犬に憧れる、というのもある訳ですよ。その幻想の方がなんらかの真実より美しいということもあるかな、と。


でもやっぱりどっちかっていうと、猫が可愛い方が自然なんだろうな……。


なんか昨日に引き続き、寝言かいてますね。もう寝ちゃうか。
でも首がまだ痛いので、眠るのも一苦労なのよね……。