世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

素朴に読むのも大事だが、その時は作家の声も読んであげてください。


井伏鱒二が、石井桃子太宰治との間に、なにかあったように書いているわけなんですが。
石井さんは、そんな交流はない、とはっきり反論しているわけで。
石井さんがお葬式で、まあ、前途ある作家を死なせちゃって、井伏さんて友だちがいのない人ですね、私が友だちだったらそんな冷たいマネしませんよ、的なことをいったから、井伏さんは腹をたてたんでしょうけれども。
だが、友だちですらなかった人と、なんかあったようなこといわれた石井さんの方が「ハァ?」と腹をたてるのは、むしろ当然だ。
(私なら、井伏をそこでいろんな意味で疑う←)*1


菊池寛だって、佐野文夫(当時の恋人)の盗癖をかばって一高退学しちゃって。
いいトシで東大退学しちゃうってよほどのことなわけで、その後いろいろ苦労して、この貧乏は金持ちの女の人と結婚すればなんとかなるに違いない、と結婚しちゃって。
君が『真珠夫人』か的な(逆玉って言葉ももう古いよね)。
退学事件のことは、菊池寛本人がエッセイ系の文章で何度も書いているわけですが。
作家研究的には、恋人関係はスルーされてるんでしょ?(まあ近い人から、本も出ているわけですけども)


歴史っていうのは大づかみに、当時の政治に都合のいいように、世間の咀嚼しやすいように物語化するものであって、それはそれでいいと思います。
だから、たとえば中原淳一の最期に何があったかとか、それを世間が知ってもたぶんスルーするわけです。興味のない人にとってはどうでもいいことだから。きれいな絵を描いた人ですね、でいいわけです。
だけど、文学の研究者として読むなら、でてきた資料の意味を考えなきゃいけない。
その吟味のできない人の書いたものは、いわゆる「トンデモ」ですよ。トンデモ。
たとえば『伸子』を、湯浅芳子をスルーして読んでるようなもので。
素直に読むのは大事なことですが、読めてないんじゃしょうがない。


まあ。
とりあえず、「これはなんだろう?」とひっかかるものがあったら、作家本人の文章にあたるのがまず最初だと思いますよ。作家だから嘘つくだろうというなかれ。他人だったらもっと無責任に嘘つくんだから。


私は最近では、全集刊行中の久生十蘭の背景がすこしずつ明らかになっていっていることに興味をひかれていますので(父の不在とか)、誠意をもって調査しているお身内の皆さんには感謝しきりです。
とにかく、まず、本人から。その肉声から。身内から。


というようなことをここ数日考えてました。
ええ、まあ。


寒いですねえ、ほんとに。

*1:疑って正解な模様。ウィキにも“戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執にはさまざまな説があるが、本当のところは分かっていない。”とあります。